Wednesday 27 January 2016

日恭は歩行困難で逃げ遅れ焼死 学会青年部有志が法廣寺の坊主を論破 ㊦

日恭は歩行困難で逃げ遅れ焼死
学会青年部有志が法廣寺の坊主を論破 ㊦
言い逃れる西田正増も遂に回答不能に
 日蓮正宗の西田正増(北海道帯広市・法廣寺の坊主)は学会青年部有志の質問に何度も回答不能に陥ったが、戦時中の数々の謗法行為に関しては姑息にも言い逃れようとして墓穴を掘った。
 青年部有志は、こう質問した。「権力に迎合して戦争協力し、謗法を犯した法主もいた。日恭は開戦の日に訓諭を発表、伊勢神宮遙拝を院達で指示し、御書の刊行禁止、十四カ所の要文の削除、本地垂迹説の不使用や御観念文の改変だけではなく、大石寺の書院に神札を祀り、創価学会にも神札を受けるよう迫
るなど、いろいろしたが、これらは謗法ではないのですか?」
 これに対し、西田は「当時は軍部の力が強かった」「当時の国家の情勢を考えないといけない」「戦時中だから謗法行為とは言い切れない部分はある」と変な言い訳をしていた。
 西田によると、謗法か否かは、その時の国家の情勢によって変化するらしい。
何とも奇妙な弁解だ。
 西田は弁明の際、学会の牧口会長なども宗門の謗法行為を黙認していたかのような口ぶりだったが、史実を曲げるのも、いい加減にしろ、と言いたい。
 死身弘法を貫いた学会の牧口会長は昭和十九年十一月十八日、一年四カ月間の拘留の末、東京拘置所の獄舎での崇高な殉教だった。
 反対に謗法に染まった日蓮正宗は翌二十年六月十七日、大石寺が紅蓮の炎に包まれ、日恭は書院に祀られた神棚と共に焼死した。
 西田は他の人は逃げたが、日恭は逃げなかった、と詭弁を弄していたが、笑止!
 学会青年部が日恭の焼死について当時、宗門の高僧の「御罰でなくて何であらう」(霑妙寺住職・渋田慈旭)との宗報の記事を読みあげたが、西田は宗報も間違いがある旨、述べていた。
 日恭の逃げ遅れについて日亨上人は、日恭は肥満で足腰が弱かったと書き残している。「(日恭は)酒は一升程も飲んでいたが、酩酊して前後不覚になることはなかった」という程の大酒飲みで「脂肪は摂取過ぎ」で肉食を好む生臭坊主だったのに加えて「運動不足の為か老年にはビヤダル(樽)式に腹部が肥満して不格好で不健全の体に見え足弱であった」「阿蘇火山に誘引せし時の先達の愚老が大に迷惑して世話のやけた事夥しかった。山登りばかりで無く平地の歩行も予が健脚には及ばず」と。歩行困難で逃げられなかったのだ。
 また日恭の焼死後、管長代務者を勤めた能化の中島日彰が大火から三カ月後に東京・妙光寺で次のように不運が重なったと語った。
①日恭は耳が悪く、上井出の寿命寺に逗留し、近くの戦車学校の軍医に治療を 受けていたが、この日に限って登山した②有力信徒が登山すると連絡があり、 無理を押して登山したが、その信徒は急用で来なかった③上井出から迎えが 来たが、断ってに泊まった④大石寺には義勇軍の農工隊が駐留していたが、将校は農工兵に脱走の恐れがあるため消火に協力させず、将校も見張りをして消火活動しなかった⑤大石寺門前の消防車は故障で動かなかった⑥戦車学校の消防車はガソリンを忘れて役に立たなかった⑦富士宮消防署は準備を整えたが、署長不在で出動命令が出なかった。
謗法の結果の仏罰なのだ。
2016.01.27

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